衒学的な文章を書くという試みについて——衒学と『上伊那ぼたん』のブルデュー的解釈
または、迂遠な自己紹介エッセイ
衒学的な文章を書くという試み
衒学的な文章を書きたければ、それほど難しくはない。 自身の乏しい読書遍歴の中から記憶を掘り出し、なんとか読みきることのできた本を思い出せばよい。 もしくは、一章しか読んでいないとか、人から書評を聞いたとかでもまったく問題はない。 あとは印象に残っている文句を文章の適当なところにそれとなく配置したり、話題の一端をつかんで連想ゲームで連結させたりするというわけ。 そうすれば読み手は想像力を膨らませて、「この本について堂々と言及できるということは、書き手はきっと『{読み手が難しい本だと認識している任意の本}』などさまざまな本を読みこなしているのだろう」と考えてくれる。 ただ堂々と、勝手な解釈であろうと一見筋が通っているような理屈を述べておくとよい。 語りえぬものについての沈黙は避けなければならない。1 あとは文体そのものを小難しそうな雰囲気にしておきながら、適当な引用でもつけておこう。 醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。2
ここまではなんとなくそれっぽい文章になっているような気がするが、そのからくりも案外単純なものだ。 私は『読んでいない本について堂々と語る方法』という本を(珍しく)ちゃんと読んでいて、その議論をなんとなく思い出しながらこの文章を書いている。 べつに本の内容を詳細に覚えている必要もなければ、自己流の勝手な解釈・読み違えが発生していても構わない。 これもまた『読んでいない本について堂々と語る方法』で主張されていた内容そのものではあるのだけれど、どうせ、読み手は書き手が話題にしている作品を知らない。 知っていても、内容を正確には覚えていないか、人づてに聞いただけなので、正しい言及をしていると思い込む。 そうでなければ、独創的な意見の表明をしているか、冗談を言っているのだとみなす。 このように、読み手というものは書かれた文章を好意的に解釈してくれるものなのだから、とにかく堂々としていればよいのだ。
衒学、またはスノッブという単語について
さて、そもそも衒学という単語を説明なしに使われているという一点からして、すでに狐につままれたようになっているみなさん。なにしてはる~?3 私は優しいので、ここで言葉の意味を解説しておこうと思う。 衒学とは、学識などをひけらかすさまのこと……いや、もっと率直に言おう。 「この文章は衒学的だ」というのは、「この文章を書いたやつはお高くとまった感じで腹が立つ」という日本語の、お高くとまった感じの表現である。 この自己言及的な表現が成り立つことからわかるように、既に言い古された話題ではあるものの、衒学という単語を使用する行為はそれ自体が衒学的であることから逃れられないということに留意しておこう。
別の言い回しとしては、「こいつはスノッブ野郎だ」も「衒学的だ」と似た意味合いになるのではないだろうか。 ここで衒学とスノッブは違う意味だろう、という指摘をしたくなったみなさんは私と同族だから、そこで勝ち誇ったような顔でもしていなさい。 最近思うのは、英語圏のsnobという単語の俗っぽさとは裏腹に、カタカナ英語としての「スノッブ」は非常にスノッブ的な雰囲気を帯びているなということ。 日本語圏でsnobという単語は人口に膾炙しているとは言い難い、にもかかわらず用いているわけだから。 そう考えると、「お高くとまってむかつく!」と言いたいけれど直接そう言うと馬鹿っぽく見えるので「スノッブだ」と言い換えている日本人は、それを見た英語圏の人からは「お高くとまってむかつく!」と言っている馬鹿っぽい人間に見えているのかもしれない。 想像してみると滑稽ではないか。
snobという英単語の意味は各自で調べてもらうとして、このように一瞬見慣れないような用語や一部の人にしか伝わらない表現を文章中に多く散りばめ、それがごく当たり前に知っているべき知識であるかのように話を進めることが肝要だ。 書き手が一部の人間にしか伝わらない表現を用いるたびに、それを知る者と知らない者との間に境界が引かれていき、説明を省略するたびに、その境界が強調され、二つの集団のどちらに属するかという選別が行われていく。 そしてその文章が衒学的であるならば、その定義から自ずと、少なくとも表面上は、文章そのものが権威的な色彩を帯びるわけだから、この二つの集団には明確な優劣があるかのように演出される。 これはまさしく、ブルデューの提示した卓越化(ディスタンクシオン)の試みであるといえるだろう。
卓越化(ディスタンクシオン)
もちろん説明なしに話を続けてもいいし、そちらの方が本筋かもしれないが、説明しよう。 この章は飛ばして読んで構わない。
ブルデュー『ディスタンクシオン』において、人々は社会的空間に占める位置に基づいたハビトゥスによって何を好んで何を好まないかを分類するが、この選好は同時に、自分が社会的にどのような人間であるかについて分類された結果の表れでもある。 言い換えれば、何を高尚なものとみなし、何を低俗なものとみなすかが、その人格がどのように形成されてきたかを語る表示となる。 ここで、好みによる分類は対象に優劣をつけて序列化する働きを持つ。 そのため、ある選好を表明することは、その分類の尺度を価値あるものとして提示し、追認を求める行為だとも言うことができる。 人は当然に自分の好むものを称賛し、好まないものを退けるが、その行動は同時に、その分類基準を社会的に通用させ、正統性を維持・強化しようとする効果を生む。
何を言っているか分からなくなってきたと思うし、書いている本人もこのままではわけが分からなくなるので、具体的な例を見てみよう。 多くの富を築いた起業家をビジネスパーソンが称揚するとき、このビジネスパーソンはビジネス的成功を社会における価値序列の分類方法として採用する——つまり経済資本的優越を正統な価値として認めるようなハビトゥスを持っている——わけで、そのような尺度に支配されて生きているといえる。 そして、ほとんどの場合本人も意識していないままに、この称揚行為は当該の分類原理を社会一般に普遍化させようとする働きを持つわけで、まさしく何を賞賛すべきかというルールをめぐる争い、ブルデューの言う象徴闘争に参加しているという構造が見える。 たとえば、「成功者」という単語が主に指し示すところを考えてみるといい。 この価値観が社会において一定の勝利を収めており、すでに我々が「成功」という言葉を「経済的成功」の意味で認識していると同時に、「成功」という言葉の使用そのものがその認識を再生産する働きを持つことがわかるだろう。
ここではビジネスを例に挙げたが、『ディスタンクシオン』においてより中心的となるのは、むしろ趣味の領域である。 趣味はまさにハビトゥスの表れであって、分類される対象でありながらそれを好む人間をも分類する。 高尚な趣味という言葉があるが、特定の趣味を持っている人間は、そのような趣味を自然と好むという態度によって自ずと権威づけられたり貶められたりする。 各人が自身の趣味を高尚で優れたものであると余人に知らしめることができれば、自分自身をも権威づけることができるわけで、当然これは象徴闘争の場となる。 また、同じ趣味を持っている集団内においても、より獲得しがたい知識・技能を持っているかどうかで序列付けが行われる。 よって、たとえばアニメ作品を語るといったオタク趣味的な行為においても、より深く理解しているとか、より趣味の良い作品を好んでいるとかの形で差異化が行われる。 これらの闘争を通じて人が自らをより上の集団に属するものとして位置付けたり、または集団内で相対的に高く位置付けたりするような差異を作り出すとき、これが卓越化(ディスタンクシオン)である。4
衒学という名づけによって為される、はったりの解体
特定の思想・研究を援用して何かを語ることは、他者に対して自分のほうがものを知っているという優越性を提示する行為であり、また当該の用語の権威性を借用する行為でもある。 特に、説明なしの専門用語や固有名詞の使用は、気取らない振舞いの中で自然に言及する程度にはそれらの語を理解していて当然である、という含意を持つ。 学識を誇示するという意図やわざとらしさを隠蔽しようとするこのような態度からは、努力して知識を身につけようとしている中流階級(プチブル)と、それを自然な振舞いのうちに身体化している上流階級(ブルジョワ)との差異に関するブルデューの議論が思い起こされるだろう。 この視点のもとでは、衒学的な振舞いとは要するに「はったり」であり、それが通用することによる正統性の獲得(厳密にはそのようなルールの通用そのもの)を闘争目標とした象徴闘争の実践であるといえる。
正統性の最も確実なしるしは、その正統性が主張されるにあたっての自信、よく言われるように「相手を圧倒する」自信であるから、はったりというのは、もしうまくいけば、そして何よりもまず相手もはったり屋であった場合には、自分の存在状態の限界をまぬがれる唯一の方法となる。 つまりそれは象徴機能(すなわちもろもろの表象を与え、かつ知覚する能力)が相互に自律的であることを巧みに利用して、普通は自分の置かれているよりも上の存在状態に結びついた自己表象を相手に押し付け、またその自己表象を正統的・客観的表象とするような同意と承認を相手から確実にひきだすのである。
『ディスタンクシオン——社会的判断力批判〈普及版〉 1』 p.411
ただし、この種の卓越化の試みは差異が正統で自然なものであると承認されることに依存しているわけで、それが意図的な振舞いであると暴かれた瞬間に、本当に卓越性を持っている人々はそのような露骨な努力はしない、と判断され、むしろ卓越性を持たないことの証左へと反転する。 衒学趣味者の卓越化の試みが、まさに「衒学的だ」という指摘によって無効化されることこそ彼らのもつ悲しみであるといえよう。
批評によって自らを語れ
正直に明かすと、この文章を書くとき、適当な下調べだけをして執筆し、「私は『ディスタンクシオン』を読んでいない。」と書こうかと考えていた。 しかし私のなかのプライドかなにかが邪魔をして、結局『ディスタンクシオン』と、その解説書である『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』を買ってしまった。 最近ではAIの力を借りれば、多少無理矢理でも議論と一冊の本を関連付けることができるし、さらにはそれらしい文章も生成させることができる。 ここまでに語ってきた内容を踏まえれば、そこにハルシネーションが含まれていようと問題はないし、たとえまったくのでたらめであっても堂々と語っていればむしろ歓迎されるようにも思われる。 しかし、ありもしない教養をひけらかすまでの勇気はさすがに持てなかったようなので、それは別の衒学趣味者諸兄にお任せしようと思っている。
もっとも、(少なくともAIによる生成物ではないにしろ)この文章全体が誤読・牽強付会・論理的飛躍の産物でしかなかったとして、それがどのような形で文章の価値を毀損するというのだろうか。 『読んでいない本について堂々と語る方法』に話を戻すと、この本の主張によれば、批評対象の作品を直接語らない批評こそ最も純粋な創作行為であるらしい。 現実の退屈な主題をモチーフにして描き出される卓越した芸術作品が創造性に富んでいるという事実こそが、現実の主題ではなく作品をモチーフとしてそこから距離を取った批評が、そのような芸術作品よりも優れた純粋な創造性の発露である根拠となるからだ。 そもそも作品というのは摂取したその瞬間から忘れ去られていくものであり、また作品の解釈も人によって違うわけだから、作品それ自体というものは存在しないに等しく、人は作品を口実として自らの内面を語っているにすぎない。
え、こんな文章が自己紹介ってこと?なんか嫌だな……
衒学によってインスタントに自らを語れ
その作品に関する文脈——というよりもその作品の周囲に関する文脈——が共有されているという前提のもとでは、単に「口実としての作品」について言及するだけの行為が一種のインスタントな自己表現の形態をとりうる。 これは、むしろ何も語らずして自らについて語っているようなもので、そこにいかほどの創造性が含まれるかはさておき、ブルデュー的にいえば特定の社会的空間に自らを位置付けるようなハビトゥスの表出、またはその試みといったところだろう。 この側面において作品名や専門用語の使用は衒学的虚飾のための意味のない権威付けにとどまるものではないし、それらの語は任意の同等の固有名詞に置換可能なマクガフィン5でもないのだ。 「アオいいよね」「いい…」6
そもそも、周りの人々が夢中になっているものにはいまいち乗り切れず、琴線に触れるものは世間の流行とは関係がなく、一人で重箱の隅をつつくことに熱を上げているのが、古き良きオタクの姿ではなかったか。 かつてのオタクは現実から逃避し、現実とのかかわりを拒否する人々とされていたが、皮肉なことに、メインカルチャーから外れたオタク的文脈においてもディスタンクシオンからは逃れられないもののようだ。 ある種の人々は自らのハビトゥスに基づいて、よりマイナーで難解な、しかし確実に評価されている作品を嗜好しようともする。 たとえば『灰羽連盟』が一部アニメファンからよく支持されているが、これはまさに内発的かつ社会的な嗜好の選好の表れで、作品が卓越性の資源とされているよい例のように思われる。 ちなみにここで『lain』ではなく『灰羽連盟』を挙げる、まさにそういうところなのだが。7 人と違ったことをしようとする人々の赴く先が往々にして紋切り型のように没個性的なものとなるのもむべなるかなといったところである。 文脈の共有という前提を置くことのできない無名の作品について語るには、すべてを自分の言葉で語るという困難な創造的プロセスが伴うからだ。 衒学を衒学であると周囲が認識できる範囲で、かつ他の衒学者と被らない固有名詞を使って闘争に参加しよう。
『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』
さて、このような文章を書こうと思ったのも、アニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』が思いのほか刺さって、キャラクターの趣味の良さや衒学的な雰囲気に対する羨望を、そしてなぜか、それと正反対の感情を同時に覚えてアンビバレントな気持ちになったからである。
雰囲気アニメの類が好きなのもあるが、学部生ぐらいのときにこの作品を見せられていたら直撃しただろうなと思う。 プログラミング関連の古典的な技術書を追っていたら数学基礎論を専攻するに至り、研究室帰りにビアバーでシメイを飲んで、『純粋理性批判』を上巻すら読みきれなくて投げていた私としては。 今でもそういうのは大好きだし、大学生がこういうことをやっているのを見たらなんともいえないノスタルジックな感覚になる。 砺波いぶきになりたい人生だった。
しかし、どうしようもなく懐かしく惹かれるところがあると同時に、どこか薄ら寒いような、見ていられないような気持ちになるのはなぜだろうか。
『上伊那ぼたん』の登場人物たちは、とにかく趣味がいい。 作品の主題となっている酒だけでなく、人文、映画、音楽やファッションなど、文化的な趣味に事欠かず、それらの固有名詞が多用されることで作品中の雰囲気が演出・補強されていく。 むしろ、趣味が良すぎると言えるほどである。 ハイカルチャー的な素養の高さは幼少期から蓄積された文化資本や良いものに触れるための豊富な経済資本を想起させ、端的に言えば彼女たちは育ちが良いのだろうと思わせる。 会話の中で多くの固有名詞が説明なしに用いられることと相まって、作品全体が衒学的な、またはそう受け取られるような空気感を帯びている。
このような中で感じ取られる薄ら寒さとは、彼女たちが背伸びをしているように直感されるにもかかわらず、ほとんどの場面で裏側にある必死さが覆い隠されているのではないか——彼女たちは自然な振舞いとしてそのようにしているのだと、都合の良い面だけを切り取って見せられているのではないか——という疑念から来るものではなかろうか。
プチブルやなりたてのブルジョワがつい「やりすぎ」ておのれの不安定性を露呈してしまうのに対し、本当のブルジョワの卓越性はいわば慎みの見せびらかし、節度や控えめな態度の誇示とでもいうべきものによって、すなわちあらゆる「派手」な行為、「人目をひく」「勿体ぶった」振舞い、まさに卓越化の意図そのもののせいでかえって価値の下落してしまうようなことすべてにたいする拒否によって特徴づけられる。 この種の卓越化意図は最も忌み嫌われる「下品さ」の一形式であり、いわゆる自然な優雅さや上品さ——優雅さを求める優雅さ、卓越化(ディスタンクシオン)の意図なき上品さ(ディスタンクシオン)の対極に位置するものなのである。
『ディスタンクシオン——社会的判断力批判〈普及版〉 1』 p.406
これははったりではないか、と視聴者に疑問を抱かせてしまった時点で、登場人物は「自然に卓越化されている人物」から「卓越化を意図して試みている人物」に格下げされ、人はそこに衒学を見る。 衒学的である、というラベルを貼りつけることが否定的な意味合いを持つのは、「お高くとまってむかつく!」と感じるような態度、つまりブルデューの指摘した「同集団内で卓越化を試みる者に対して加えられる同調圧力」によって説明することができるだろう。 教養あふれる振舞いを見せつけられたとき、行為者が本物の貴族の出自を持っているのであれば人は称賛するし、一方で自分と同列の人間が上流階級のように振る舞おうとしているのであれば人は反感を覚える。 この作品が時に批判的な語り口で衒学的だと評されることがあるのは、登場人物たちの趣味の良さと、それを強調する演出が、卓越化の意図として受け取られるためかもしれない。
固有名詞を用いた自然な会話の演出と、その作劇手法の副次的効果としての衒学性
もちろん、会話のなかに固有名詞が説明なしに登場したからといって、すぐに衒学と結びつくわけではない。
「で、お昼は何食べたの?」
「私は秩父そば」
「わらじかつ丼!」
「あー、もしかして駅前のフードコート」
「あたりです!」
アニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』 第3話
この会話で登場する料理名を一度も聞いたことがない視聴者もいるだろうが、秩父に住んでいる彼女たちがもしここで名物料理の紹介を始めたら、それこそ説明的すぎるとして不評を得るに違いないだろう。 彼女たちにとってこれらの名前は全員が共有している文脈の中にあり、まったく自然な会話であることに疑いの余地はない。 むしろこのような会話によって、登場人物たちの自然な姿が描かれているという印象も抱かせる。 当然ながら作中世界から見れば第四の壁など存在せず、話を盗み聞きしている視聴者の存在を想定して発話を行うはずがないからだ。
いっぽうで、以下の会話も共有された文脈における固有名詞の使用だが、視聴者の受ける印象は若干異なるものになるかもしれない。
「アルトマン版は主演だれ?」
「ティム・ロス」
「ああ、なるほど!わかるかも。ロス主演だと、トルナトーレの海の上のピアニスト、好きだなぁ」
「私はレザボア」
「レザボア!わかるわぁ。あとストッパードの……」
アニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』 第10話
作品名や人物名を口にするだけで、それに付随する嗜好までもが相手に伝わるし、これが自身を語ることでもあると互いに理解しているから、当事者同士でなければ成立しないハイコンテクストな会話だったとしても、かなでとジンランの二人の間ではこれが自然な会話として成立する。 しかし、これを聞かされる視聴者にとっては話が別である。 たまたま映画について造詣の深い視聴者であれば二人の会話に相槌を打つこともあるかもしれないが、視聴者層を特別に限定しているわけでもないアニメ作品において、二人が何を話しているのかわからない、というのが多くの場合の反応だろう。 このとき、会話を理解するキャラクターたちと理解しない視聴者の間には境界が引かれ、ハイカルチャー趣味への見識による差異化が行われる。 これはまさに趣味による卓越化の構造そのものであり、「自然な会話」によって視聴者が置き去りにされるとき、意図的かどうかにかかわらず卓越化による衒学的ひけらかしの構造は生じるのである。
文脈が共有されない固有名詞の使用が持つ多義性
もっとも、作中で趣味について最初から話が通じているのはかなで・ジンランの間ぐらいで、「相手が何を話しているかわからない」といった反応を登場人物が示すシーンは多い。
「寒すぎてサミュエル・L・ジャクソンになった」
「サム・ペキンパーになった」
「アイ・アム・サム」
「サム・フォーティーワン!」
アニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』 第12話
もちろん相手の知らない固有名詞を出したあとで説明を加える場合も多いが、では文脈が共有されていない場合の固有名詞の使用はどのような意味を持つのか。 相手の興味を探るという意味合いで考えると、相手がそれを知っていればよし、興味を持って質問してきたなら話を広げることもできるだろう。 ほかに挙げられるように思われるのは、この発話で想定される聞き手には発話者自身が含まれており、自己表象が自然に漏れ出していると同時に、その自己表象を強化する働きを持っているということだ。
「てか贈与って何だよ、プレゼントだろ、モースか私は」
アニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』 第12話
かなでの独白を見ればわかりやすい。 要するに相手がいてもいなくても変わらない独り言のようなもので、普段から接しているものに関連する単語が日常の中でふと思い浮かび、そのまま口をついて出るのである。
この種の発話は一種の自己確認であるといえるだろう。 自分はこのようなものに興味を持っていて、このような語彙を用いる人間なのだという自己像が発話として外部化される。 このように考えれば、これは他者に対する自己表現である以前に、自分自身に対する自己表現であるといえる。
「TOGAとポーターのコラボでしょ、MM6は見たい! あ、sacaiも寄っていい?」
アニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』 第11話
相手(いぶき)が文脈を共有していない中でのぼたんの発話である。 いぶきとの繋がりが、彼女の興味対象である酒を介したものでなければ成立しないのではないかと葛藤しているぼたんが、自分の趣味の文脈にある固有名詞を説明なしにいぶきに対して使っている。 一見するとぼたんがいぶきとのデートを楽しんでいるシーンに見えるが、固有名詞を通した自己表現によって、いぶきにぼたん自身を見て知ってほしいという欲求が表れているかのようだ。 そしてぼたんにとっては自己表現として成立しているその会話が、ファッションに詳しくないいぶきには通じず、空回りになっていることで、楽しげな様子の裏にあるぼたんの焦りがかえって浮かび上がる。 皮肉なのは、発話者の意図とは裏腹にこのようなコミュニケーションは社会的位置の違いを明確化し、自分と相手とを序列化して卓越性を強調する働きをするので、むしろ相手に気後れを感じさせてしまう結果を生むことである。
「もしかして……いま、私、無理させてる?」
アニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』 第11話
このように文脈の共有されない固有名詞の使用といっても、知識の誇示だけでなく、相手の知識の確認や身体化された趣味の自然な表出、あるいは自己表現と、その意味するところはさまざまである。 そして、外から見た振舞いからでは、あるいは発話者自身にとっても、どのような意図でそれが行われたかを判別することは難しい。
郡上かなでのプチブル的解釈
ここで明確に区別しておく必要があるのは、登場人物たちが背伸びや知識のひけらかしをしているのかどうか、作品がそれをどう演出しているか、視聴者がどのように受け取るのかは、それぞれ別の問題であるという点だ。
「飲んだことなかったんだ?」
「だって、良いお値段するし! カバランって……(これまでバーとか入ったことなかったもん……)」
アニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』 第8話
場慣れした様子でバーに入っていくぼたんに対して、ジンランが会話の主導権を取り戻そうと必死になっているシーンである。 ふつう、高級品や高尚な趣味に対しては、当然ながら気後れが発生する。 一般にそれほど金銭的余裕があるわけでもなく、社会経験も少ないとされる大学生ぐらいの年代であればなおさらだろう。
このシーンではジンランの焦る様子や内心が描かれることによって、洗練された振舞いの欠如を隠そうとしている様子が明確に示されている。 ブルデュー的文脈で表現するとすれば、そこに居ることを当然のこととして捉え、泰然とした様子で雰囲気の良い場所に溶け込んでいるぼたんは上品なブルジョワ的振舞いをしており、それに対して気後れしながら追いつこうと努めるジンランの様子はプチブル的であるといえる。 とはいえぼたんが初めて飲酒したのは作中の第1話のことだから、単にバーに行ったことのある回数の違いによって多少場慣れしているように見えるだけで、ジンランと大した差があるわけでもないだろう、と見る向きもあるかもしれない。 しかしブルデューによってまさに問題とされるのは、長年かけて形成された文化との関わり方であり、生育過程で得たブルジョワ的ハビトゥスによって新しく触れる文化に対してもブルジョワ的な態度で向き合うことができるという点である。
これに対置されるプチブル的態度とは、ブルジョワ的な正統文化の価値を強く承認するにもかかわらず、幼少期から時間をかけて無意識的に文化との関わり方を習得するような機会の欠如のために、教養を意識的に学び取るべき対象として認識してしまい、結果として余裕のなさや、無知に対する過度な恐れを露呈させてしまうものである。
教養を学識と同一視する彼らは、教養人とは学識の膨大な宝庫を所有している者のことだと考えているのであり、だからまさにその教養人の一人が、信仰上の教義とともにただの田舎司祭には禁じられているさまざまな自由をも同時に手にすることのできる枢機卿よろしく、その最も単純で最も高度な表現にまでつきつめていけば教養とは結局のところ文化にたいする関係にほかならない(「教養とは、すべてを忘れた後になお残るもののことだ」)と一つの警句の中で述べるとき、この言葉を信じることができない。
『ディスタンクシオン——社会的判断力批判〈普及版〉 2』 p.645
このような対比において、まさにプチブル的ハビトゥスを表出させるキャラクターがいる。
「正直……日本酒自体ほとんど飲んだことのない私には、まだ難しいお酒。
でも、いつか理解したい……」
アニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』 第7話
「私、事前知識なしに作品見てもよくわからないんだよね。
どうして、この作品は評価されているのか。
作者がどんな意味を込めたのか。
それを知りたくて、たくさん解説書やインタビューを読んじゃうんだけど…… これって、迂遠じゃない?
目の前に作品そのものがあるのに、他人の見識を頼ってまっすぐ見てない。
自分の感受性と向き合えてない気がするんだ」
アニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』 第10話
知識のない状態での判断を保留し、自分の感受性よりも権威化された評価を気にするかなでの態度はまさに、意図して卓越性を獲得しようとするプチブル的姿勢といえる。 自らの文化との関わり方がスノッブ的ではないかと疑問を持つ様子は、そこに疑問を持つという一点においてブルジョワ的姿勢との埋めることのできない隔絶を示しているではないか。
これは相手の趣味に自らの感性をもって飛び込んでいくぼたん・いぶきの向き合い方と対照的に描かれているようにも思われる。
趣味は配合する。 それは色彩のみならず人間も組み合わせるのであり、そうした人々はまず何よりも趣味の点から見て「似合いのカップル」をかたちづくるのだ。
『ディスタンクシオン——社会的判断力批判〈普及版〉 1』 p.393
だからこそ作中のカップリングはあのような組み合わせになっているのだ……という趣旨の話に広げてもよいのだが、いま問題となるのは、一人一人の登場人物に注目すると、全員がブルジョワ的でハイソな雰囲気を一貫して纏っているわけでも、逆に必死に背伸びをしているわけでもなく、キャラクターによって趣味に対する向き合い方が描き分けられているという点である。 逆に言えば、かなでとジンランを除いた登場人物たちは素の状態であれほど趣味がよいブルジョワ的なキャラクターとして描かれているというわけだ。 ここから、少なくとも作品が視聴者にキャラクターをどう見せるかというレイヤーにおいては、ぼたんやいぶきが衒学的と読み取れるような振舞いをするとき、そこに必死さや気取りではなく、自然な上品さや洗練された印象が配置されていることがわかる。 よって、郡上かなでがプチブル的であるという事実は、正統性の獲得を目指しながらも気後れするような態度を描こうと思えば描けるにもかかわらず、他の人物にそのような内面が存在しないかのようにスクリーンに投影する意図的な描き方をしているのではないかという疑念を強めるという意味で、作品全体の衒学性への疑いを補強する要因となるように思われる。
つまり、本当にそんなにお金持ってるの!?とか、本当に「息抜きとして」『論理哲学論考』を読んでるの!?という驚き、疑念が生じるわけである。
作品と視聴者との関係において生じる衒学性
そういうわけで、ハイカルチャー趣味を題材にしつつ、説明なしに固有名詞を用いた会話を多用するという手法を考えると、実際にそのような意図があるかどうかとは関係なしに、視聴者が衒学的雰囲気を『上伊那ぼたん』に感じとるのも自然なことであるように思える。 一方で、『上伊那ぼたん』という作品全体が衒学を意図しているという、作劇手法に対する疑念から生じる解釈は、登場人物がほんとうに特権階級と言えるほどの育ちの良さを持っている、と仮定すれば無効化されうる。 作品はただ彼女たちの自然なありかたを描写しているにすぎず、そこにあるのは多くの視聴者層との生活基準の乖離でしかない、という説明が成立するからだ。 ゆえに、疑念自体は妥当であっても、それを断定することはできない。 実際に衒学を意図して描かれているかもしれないが、そうでなかったとしても、意図せず衒学的性質を持つ可能性があることは、これまで見てきたとおりである。
よって、作品の衒学性の如何は、作品そのものだけで問うことはできず、作品と視聴者との関係についても考慮されなければならない。 極論を言えば、もし視聴者が完璧な教養人であったなら、作品中の固有名詞を多用した会話はすべて「ありがちな会話」として投影されることだろう。 ある視聴者が『上伊那ぼたん』が衒学的なのではないかと疑ったとき、キャラクターのブルジョワ性と作品全体の衒学意図という二つの観点からみて、妥当な解釈として以下の三通りが考えられる。
- 登場人物は背伸びをして気取っているが、作品全体の衒学的意図によってそれが覆い隠されている。
- 登場人物は育ちの良い上流階級出身で、作品全体の衒学的意図によってそれが強調されている。
- 登場人物は育ちの良い上流階級出身で、作品は衒学的意図なしにそのままを描き出している。
上二つは登場人物か作品そのもの、少なくとも片方の衒学的意図を想定しているから、どちらにせよ「はったり」が作品には含まれているという解釈である。 そして三番目の解釈、先ほど指摘したケースであるが、この場合、作品内のどこかに衒学的意図があるという前提は要求されない。 つまり、本当に高尚なものに対して衒学というラベル付けを試みていただけである、という可能性が出てくる。 この可能性が排除されないことによって、作品が衒学的であると判断しようとする視聴者の側に責が帰される。 要するに、衒学を衒学であると指摘するとき、それは正当な看破であるかもしれないが、それが実は降伏の宣言であるという可能性を決して否定できないのである。
衒学を見抜こうという試みの衒学性により露呈する、ブルジョワ的ハビトゥスとの断絶——または、迂遠な自己紹介
視聴者としての私が『上伊那ぼたん』に薄ら寒さのような感情を抱いたとき、そこに衒学を見たと言われればそうなのだろう。
しかし、仮に彼女たちがほんとうに、背伸びしたプチブルではなく本物のブルジョワとしての振舞いを身体化していたのだとして、何の問題があるというのだろうか。
……。
こと私に限れば、それは大きな問題であるように思われる。 言うなれば過剰に自己投影しようとしすぎたのだろう。
余談だが、私はある時期、研究室にいた人をつかまえては、どのようなジャンルの音楽を聴くのか、そしてそのジャンルに最初に触れるきっかけは何だったのかについて聞いて回ったことがあった。 田舎の農村の出である私は率直に言って音楽的素養は皆無で、両親は車内で往年のヒット曲のCDをかける程度にしか音楽と縁のない人々だった。 結局いろいろと聞いてみたものの、人がどのように音楽のジャンルやライブに行くアーティストを選んでいるのか未だによくわかっていない。 中学生の時にジャズが好きな同級生がいて、彼にジャズの偉大なアーティストたちを紹介した本を見せてもらったような気がするのだが、私が理解できる固有名詞はサッチモ(ルイ・アームストロング)だけである。
他の文化的趣味についても私は凡庸な庶民そのものであるのだが、唯一、本については人並みをわずかに上回る程度には読むかもしれない(大した量ではない)。 両親はろくに本棚らしい本棚を持っていなかったが、記憶を遡ってみると、夏休みを過ごした母方の祖父母の家で布団に入って寝るときのことが思い出される。 その広い和室の壁は一面がまるごと本棚になっていて、祖父の書斎から溢れた本がびっしりと並べられていたのだった。 その一角に『十津川警部』のような推理小説が並んでいた、というようなことしかもはや覚えてはいないが、考えてみると、人はこれほど本を集めて読むものなのだ、という感覚がそのとき無意識のうちに刷り込まれたのかもしれない。 (というか、祖父が書斎とそこから溢れるほどの本を所有していたという家庭的背景を踏まえると、隔世遺伝的であるとはいえ、「農村出の凡庸な庶民」という先述の自己認識は見直す必要があるような気もしてきたが。)
研究室にいたあの頃、私は何を理想としていたのだろうか。
衒学という単語を使用する行為はそれ自体が衒学的であることから逃れられない。 そして、衒学趣味者の卓越化の試みは、まさに「衒学的だ」という指摘によって無効化される。 上伊那ぼたんに、砺波いぶきに衒学を見るとき、それは衒学であってくれなければ困るのだ。
ある意味では理性が拒んでいる側面もあるが、どうやら私はこういうものを求めていたオタクであるらしいと再確認させられるところが多い。 そして、にもかかわらず、自分が「どちらの側」にいるかはもはや明白である。 「寒すぎてサミュエル・アダムズ8になった」とか言ったことがあるのを思い出して歯がゆくなる。
こういうものが理想だと思っているんだろう?とお出しされたものに対して、歯を食いしばりながら、そうです、こういうのが好きなんです、と言わざるを得ない感覚。
今だってまさにそうだ。 こんな失笑ものの文章を書いておきながら、同時にこれが自身の作家性の発露かなにかであるように感じてもいる。 私は悔しい。